インドについての拙稿

 帰国して3週間ほどが経ち、大学もはじまった。諸事情により貯金もせねばならず、忙しいことこの上ない。
 帰国して3週間経った今でも、毎日インドのことを考える。インドには独特の“匂い”がある。牛糞をはじめとした汚物、排気ガス、動物などなどが集まった、何とも言えない臭いであるが、何よりそれは人の匂い、人の生活する匂いであった。
 それに比べてこの東京の街には臭いというものがない。こんなにも多く人が住んでいるのに“匂い”は異物として扱われ、排除され、良い匂い、悪い臭いに分けられている。インドのようにただそこにあるようにあるものではない。

違和感。

あるいは、音もそうだ。昼間のインドの街はまさに音の洪水である。あらゆる宗教、カーストの人々が負けじと大声で自己主張し合い、車もリクシャーも意味もなくクラクションを鳴らし続ける。
 一方、今現在この文章を書いているぼくはナチスドイツのユダヤ人輸送車両より人口密度の高い電車に乗っているというのに、電車が線路を走るガタンゴトンという小さな音が聞こえるだけだ。
 この街では電車内での私語は好ましくないものとしてまた、排除されている。

 不快要素を科学と倫理の力でほとんど取り除き、残ったのが東京という街だ。

 日本はローコンテクストな文化を持つ国であるとされている。友人や恋人、家族の間でも会話で情報共有をしなくとも多くの共通言語があるから、アメリカ人のように喋って喋って喋り倒す、という品のないことをしない。つまり共同体の中に前提としての一体感があるということだろう。
では、ぼくがインドで感じたあの一体感はなんだったのか。変わった身なりをした異国人であるぼくをいとも簡単に包み込んでしまった、あの音と色と匂いの洪水は何だったのか。
 ぼくには正直なところさっぱり分からないし、それこそが言語化出来ないインドの魅力であると思う。
 分からないなりにも自分なりに考えてみたあの一体感について述べたい。ぼくが日本で感じる同調圧力的な一体感とインドで感じた一体感は全く違った。自由で、ありのままの姿で居ていいような、そんな一体感だった。インドでは人々がそのままの姿で、自由気ままに暮らしている。だからそのままの姿で、人間として、それ以前に生き物として(ぼくは牛にすら一体感を感じたのだ)生きれる、そのあまりにも大きすぎる大前提に一体感を感じたのではないか。
 あるいはもっと単純に、様々な宗教、文化を受け入れてきた土地柄、どんな人間でも溶け込める土壌を持っている、というだけの話かもしれない。すべて推論にすぎない。インドではすべてが本当に思え、すべてが嘘にも思えるのだ、本当のことなど分かるわけがない。

 バラナシのゲストハウスで、オーストラリア人に「インド人はクラクションを楽器か何かと勘違いしているんだと思うよ」と言うと、彼は笑い、同意した。でも、ぼくは今あのクラクションが懐かしい。

 今日もぼくはインドで買ってきたお香を焚いて眠るだろう。あの不思議な国のことを思い出せるように。そして明日もあの国では日本より3時間30分遅い時間が流れ、人々は少しも変わらずクラクションを鳴らし続け、尻を手で拭き、熱い陽に照らされてその肌を焼くだろう。

無題

 たばこに火をつけて、ひとくち吸うと、ぼくは黒くて丸い灰皿のふちにたばこを置いた。
 無風の室内でたばこの煙は白い線のようにまっすぐ上に昇っていった。それはなんだかとても美しい光景のように見えて、ぼくは出来るだけ息を立てないようにそれを見ていたけれど、たばこはやがて燃え尽きて、灰皿の内側にぽとりと落ちた。

2014年10月26日と瞬間と処世術の話

 ある種の処世術として、自分の命を自分のものだと思わないことにした。自分の人生を自分で背負えるほどぼくは強い人間ではないから。自分の人生を楽しむことが出来ないから。この生き方を捨てたらぼくはたちまち死んでしまう。

 忘れもしない2014年10月26日、ぼくは自殺に失敗して救命病棟に運ばれた。胃洗浄などの処置を施された後、ぼくは病室に運ばれたが、睡眠障害の上カフェイン錠を致死量以上ODしたぼくに眠ることは許されなかった。
 病室の仕切りはゆるく、隣の患者や前の患者を見ることが出来た。彼らの心音計は安定せず、何人かは運ばれていった。その後の彼らがどうなったのかぼくは寡黙にして知らない。
 その病室で、ぼくは明らかな異物だった。周りの患者はみんな生きたくて生きたくて、懸命に明日に手を伸ばそうとしていたのに、その中でぼくだけが希死念慮に苛まれ、明日に絶望していたから。

 ある出来事をきっかけに、ぼくの心にぽっかりと穴があいてしまった。その穴を前にして、ぼくはどうすればいいのか分からなかった。その穴はあまりにも巨大で、底が見えなくて、どす黒いものを噴出させ続けていた。
 脇目も振らず懸命に生きてきたぼくは、つい最近までその穴の存在にすら気づかなかった。無意識にその穴を埋めるような行為が自分をどんどん惨めに、醜くしていくことに気付かなかった。
 でも、多分、逃げていただけなのだ。
 目を背けて、走って走って逃げ続け、気付いたら死の淵まで来ていた。

 ごく稀に、その穴が健全に埋まっているのを感じる瞬間がある。終電間際の井の頭公園で、深夜2時の三条のバーで、それは突然訪れ、寝れば去ってしまう。
 とても愛おしくて貴重な時間で、ぼくはふっと涙を流してしまうことがある。なに泣いてんだよ、と笑われたり、何も言わずに抱きしめられたりする。

 翌日退院する時、当直医に「きみ、面白いね」と笑われた。

 どうすれば穴とうまく付き合って生きていけるのか、自分の病気が治るのか、ぼくにはまだ分からない。
 今でも毎日のように希死念慮と戦っている。打ちのめされ、泣き叫び、パニックを起こし、布団の中で丸まって、苦しい苦しいと嗚咽を漏らす。
 それでもぼくは、一応生者の列に加わって、下を向きながらも、とぼとぼと歩いている。傷だらけの手で弱々しく、明日へ手を伸ばそうとしている。

 死ぬ時は最低でも7階から、一応保険をかけて8階から飛び降りましょう。刃牙でもない限り一瞬で意識が消えて、後には何も残りません。

ノルウェイの森とニューヨークと1年の話

 時々自分がどこに居るのか分からなくなる。自室のベッドで、四条河原町の交差点で、下北沢の商店街で、ハイドパークの木の下で。
 本棚から村上春樹ノルウェイの森を取り出して、最後の数ページをぺらぺらとめくってみる。ぼくは村上春樹の小説はほとんど全部読んでいて、その上で好きなのは「アフターダーク」「東京忌憚集」そして「ノルウェイの森」だけだ。
 つまりあまり好きな作家ではないのだけれど、ノルウェイの森のラストシーンのワタナベを自分と重ねるというイカ臭い行為を何時になってもしてしまうことがある。
直子の服を着たレイコさんに求められた時彼は何を思ったのか、何を思ったのか、何を思ったのか 描写されることはない それがこの小説の美点のひとつであるように思う。ただ、ときに一度のセックスが人生を変えてしまうこともあるということは言えるだろうし(これは直子にも言えることだ)それを知らない人間(たとえ経験していなくても良いのだ)をぼくは好きになれない。大学で幅を利かせている学生は大半がそんなやつらで、ぼくは先日京都を訪れた際に彼らのことを高瀬川のようなやつらだと思った。美しいけれど底が浅い。

「あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけれど。あんないい手紙だったのにね」「手紙なんてただの紙です」と僕は言った。「燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」

 ちょうど1年前の今日、ぼくはニューヨークにいた。1年が経つのは早い。常にマイナス10度を下回るような寒い日々が続いていたが、ぼくは目を輝かせてレキシントン通りを、五番街を、ソーホーとリトルイタリーを、ウィリアムズバーグを歩いた。NY在住の友人がいて、彼女とセントラルパークを歩いた。あの公園の広さには辟易する。
 毎晩のように寮で隣の部屋の連中が深夜までマリファナパーティーを開いていたことを思い出す。ルームメイトの韓国人とこっちの方が良いのにな、と言って一緒に食堂からくすねてきたオレンジで作ったサングリアを飲んだ。あれから1年が経ち、ぼくはお酒があまり好きではなくなった。もうニューヨークに行きたいとも思わない。

 春休みに入って、良いことがあり、悪いことがあった。日々は誰の身にも残酷すぎるほど平等に流れていく。