ノルウェイの森とニューヨークと1年の話

 時々自分がどこに居るのか分からなくなる。自室のベッドで、四条河原町の交差点で、下北沢の商店街で、ハイドパークの木の下で。
 本棚から村上春樹ノルウェイの森を取り出して、最後の数ページをぺらぺらとめくってみる。ぼくは村上春樹の小説はほとんど全部読んでいて、その上で好きなのは「アフターダーク」「東京忌憚集」そして「ノルウェイの森」だけだ。
 つまりあまり好きな作家ではないのだけれど、ノルウェイの森のラストシーンのワタナベを自分と重ねるというイカ臭い行為を何時になってもしてしまうことがある。
直子の服を着たレイコさんに求められた時彼は何を思ったのか、何を思ったのか、何を思ったのか 描写されることはない それがこの小説の美点のひとつであるように思う。ただ、ときに一度のセックスが人生を変えてしまうこともあるということは言えるだろうし(これは直子にも言えることだ)それを知らない人間(たとえ経験していなくても良いのだ)をぼくは好きになれない。大学で幅を利かせている学生は大半がそんなやつらで、ぼくは先日京都を訪れた際に彼らのことを高瀬川のようなやつらだと思った。美しいけれど底が浅い。

「あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけれど。あんないい手紙だったのにね」「手紙なんてただの紙です」と僕は言った。「燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」

 ちょうど1年前の今日、ぼくはニューヨークにいた。1年が経つのは早い。常にマイナス10度を下回るような寒い日々が続いていたが、ぼくは目を輝かせてレキシントン通りを、五番街を、ソーホーとリトルイタリーを、ウィリアムズバーグを歩いた。NY在住の友人がいて、彼女とセントラルパークを歩いた。あの公園の広さには辟易する。
 毎晩のように寮で隣の部屋の連中が深夜までマリファナパーティーを開いていたことを思い出す。ルームメイトの韓国人とこっちの方が良いのにな、と言って一緒に食堂からくすねてきたオレンジで作ったサングリアを飲んだ。あれから1年が経ち、ぼくはお酒があまり好きではなくなった。もうニューヨークに行きたいとも思わない。

 春休みに入って、良いことがあり、悪いことがあった。日々は誰の身にも残酷すぎるほど平等に流れていく。