2014年10月26日と瞬間と処世術の話

 ある種の処世術として、自分の命を自分のものだと思わないことにした。自分の人生を自分で背負えるほどぼくは強い人間ではないから。自分の人生を楽しむことが出来ないから。この生き方を捨てたらぼくはたちまち死んでしまう。

 忘れもしない2014年10月26日、ぼくは自殺に失敗して救命病棟に運ばれた。胃洗浄などの処置を施された後、ぼくは病室に運ばれたが、睡眠障害の上カフェイン錠を致死量以上ODしたぼくに眠ることは許されなかった。
 病室の仕切りはゆるく、隣の患者や前の患者を見ることが出来た。彼らの心音計は安定せず、何人かは運ばれていった。その後の彼らがどうなったのかぼくは寡黙にして知らない。
 その病室で、ぼくは明らかな異物だった。周りの患者はみんな生きたくて生きたくて、懸命に明日に手を伸ばそうとしていたのに、その中でぼくだけが希死念慮に苛まれ、明日に絶望していたから。

 ある出来事をきっかけに、ぼくの心にぽっかりと穴があいてしまった。その穴を前にして、ぼくはどうすればいいのか分からなかった。その穴はあまりにも巨大で、底が見えなくて、どす黒いものを噴出させ続けていた。
 脇目も振らず懸命に生きてきたぼくは、つい最近までその穴の存在にすら気づかなかった。無意識にその穴を埋めるような行為が自分をどんどん惨めに、醜くしていくことに気付かなかった。
 でも、多分、逃げていただけなのだ。
 目を背けて、走って走って逃げ続け、気付いたら死の淵まで来ていた。

 ごく稀に、その穴が健全に埋まっているのを感じる瞬間がある。終電間際の井の頭公園で、深夜2時の三条のバーで、それは突然訪れ、寝れば去ってしまう。
 とても愛おしくて貴重な時間で、ぼくはふっと涙を流してしまうことがある。なに泣いてんだよ、と笑われたり、何も言わずに抱きしめられたりする。

 翌日退院する時、当直医に「きみ、面白いね」と笑われた。

 どうすれば穴とうまく付き合って生きていけるのか、自分の病気が治るのか、ぼくにはまだ分からない。
 今でも毎日のように希死念慮と戦っている。打ちのめされ、泣き叫び、パニックを起こし、布団の中で丸まって、苦しい苦しいと嗚咽を漏らす。
 それでもぼくは、一応生者の列に加わって、下を向きながらも、とぼとぼと歩いている。傷だらけの手で弱々しく、明日へ手を伸ばそうとしている。

 死ぬ時は最低でも7階から、一応保険をかけて8階から飛び降りましょう。刃牙でもない限り一瞬で意識が消えて、後には何も残りません。